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森と友だちになる話ー『狼森と笊森、盗森』のこと

ずーっとさかのぼると、2010年に書いた「狼森」の話が出てきて、全然違っておもしろい。
(リンクを貼ろうとしたけど、うまくできない。興味のある人は2010年の記事を見てみてください。)


今回は、友だち中心に考えてみた。
しかし、小学生たちに説明したら、非常にイマイチだった。説明が。準備が足りなかったか。


友だち、何人いますか?一人、二人、5人、50人、100人?学校の友だち、近所の友だち、親せきの友だち、ものぶんの友だち、いろんな友だちが思い浮かぶと思います。友だちになる、ってでもどういうことかな。「友だちの作り方」ってあるのかな?どう思いますか?たいていの場合、「今日は友だちを作ろう」とか、「あそこに行って友だちを作ろう」ということはあんまり考えてなくても、いろんな場面で仲良くなった人がいて、「友だちになったな」と思う、ということが多いんじゃないかな。森と友だちになれるかな?山男や狼とともだちになれるかな?どうすれば友だちになれるのか、ちょっと一緒に考えてみましょう。

『狼森と笊森、盗森』のお話は、黒坂森の大きな黒い岩がそれぞれの森がどうしてできて、どうしてこんな名前がついたのかを「わたくし」に聞かせるお話です。でも、お話を読んでも、その理由は実はよくわからないと思います。ここに4人の百姓、3人のおかみさん、9人の子どもたちが来た時からそれぞれの森には名前がついていました。その前の部分を読むと、「森にはまだ名前もなく、めいめい勝手におれはおれだと思っているだけでした」と書いてありますが、みんなが子どもたちを探しに森へ入って行く時には、「まづ一番ちかい狼森に行きました」と書いてあって、もう「狼森」という名前はついているようです。その後も、笊森行くと「笊森の笊はもつともだが、中には何があるかわからない」、盗森に行くと「名からしてぬすと臭い」というように、森の名前ははじめからあるような書き方です。
どういうことでしょうか。森の近くに人が住む前は森には名前がなかったけど、森の近くに人が住むようになった時には、もうすでに森にも名前はある。そもそも、土地の名前、地名というのはどういうものなのでしょう。ほとんどの場合、地名は人間が考えてつけているのです、実は。例えば「調布」という地名の由来はみなさん知っていますか?「調」というのはそもそも西暦650年ごろの税の種類の一つで、その頃にこの地域では「布」を作って税として国におさめていたので、「調布」という地名ができたと言われています。(ちなみに調布と書いて「たづくり」と読んでいたことから「たづくり」という施設の名前がついています。)「布田」や「染地」という地名も布に関係していますね。みなさんが住んでいる地域の名前もどのような由来があるのか、一度調べてみると面白いと思いますよ。

さて、狼森の話に戻りましょう。狼森などの名前は、いつ誰がつけたのか。このお話だけではよくわかりませんね。岩手山が噴火して、灰に埋まって、草木が生えて、四つの森ができた。その時には名前がないが、人が近くに住むようになって、誰かが名前をつけた。それがこのお話に出てくる百姓なのか、もっと前に誰かが来て、名前だけつけてここには住まなかったのか、どちらかなのでしょう。そもそも、「森」とは何かというと、その語源は、「盛り」だと言われていて、「周囲にくらべて木々が茂って盛り上がっているところ」という意味です。以前、実際に狼森に行った時にガイドの人が、「狼森は狼の形から来ているという説もあります」ということを教えてくれました。「狼森」、「笊森」という名前は、見た目でつけられたり、「盗森」という名前は、お話に出てくるように松など木が真っ黒に茂っていて、怪しい雰囲気があるから「盗森」という名前がつけられた、と想像することはできます。ただ、それだけではこのお話にはなりません。このお話の大切な部分は、森と人が交流して、「友だち」になる、いうところです。

四人の百姓がこの場所に来てはじめてに森に向かっていくつかのお願いをします。畑、家、火、木材の許可をもらいました。そして、冬には風から新しい村を守ってくれました。そして次の年には、豊かな実りがありました。しかし、冬の初めに子どもたちを一度森に隠します。みんなは心配になって探しに行くと、子どもたちは火の回りでご馳走をもらって、狼の踊りを見ていました。その子達を連れて帰った後、みんなは森に対して怒るのではなく、お礼に粟餅をお返ししました。笊森には農具、盗森には粟を隠されました。でも、また返してもらって、お礼に粟餅を持っていきます。そして、その後は4つの森は毎年粟餅をもらうようになります。大切なものを一度預かって、返してもらって、お礼をする、というのはどういう意味があるのでしょうか。
みなさんは、お墓参りに行ったことはありますか?ご先祖様のお墓に行って、お花を飾ったり、お線香を立てたり、お水をかけたり、お供え物をしたりしたことがあるでしょうか?僕が子どもの頃に夏休みに行った青森のおばあちゃんの家では、お盆にお墓にお供えしたお赤飯やジュースなどを、少ししたら持ち帰って食べていました。「神様に一度預けて、それをみんなで食べるんだよ」という説明を聞いていたような気がしています。このことを「共食(きょうしょく)」と言います。現代のお祭りなどでも、神様にお供えをして、それを後で分けたり、その場でみんなで食事をすることによって、お互いの関係を深めたり、また、地域の神様に感謝をする機会にもなります。
四つの森に大切なものを預けて、返してもらう、そして、粟餅を持っていく。もちろん粟餅を作った時には自分たちの分も作って同じものを食べたのでしょう。狼も山男も、黒坂森の岩も、盗人森の黒い男も神様というよりは、同じ地域に暮らしている仲間のように描かれています。だから最後に「それから森もすつかりみんなの友だちでした」と書かれていると思います。狼は子どもたちにご馳走をしてくれました。山男は農具を笊に入れて、ばあ、と言っただけ、ですけど、山男は「製鉄」の神様の仲間でもあります。道具をちょっと直してくれたのかもしれません。盗森の黒い男は、粟を隠しました。自分で粟餅を作ってみたかった、と岩手山が教えてくれました。
村の人たちにとって、森は近づけない神様ではなくて、自分たちの大切なものに触れてもらいながら、自分たちの大切な食べ物である粟餅を一緒に食べる大事な友だちとして付き合っている、というのがこのお話のおもしろいところです。森と人と動物と、さらには山に住むさまざまな存在も一緒に暮らす友だちとしてこのお話の中に描かれています。誰でも友だちになれるし、そういうふうにして世界と向き合う方法がある、ということも考えられるかな、と思います。
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210417いてふの実 [ものがたり文化]

今日は小学生5人で活動。
はじめに、イチョウが3億年前から現在まで同じ姿なこと、オスの木とメスの木があること、ラッパ型の葉っぱが出ることがあること、などの話をして、今取り組んでいる『いてふの実』のお話の中でわからない言葉や気になることについて、図書館で本を借りて調べることにしました。
イチョウ、桔梗、烏、鋼、北風について、それぞれ本を借りて来週までに調べてまとめて来てもらうことにしました。
それから、先週公園でみんなで凧揚げをしたことを思い出して、最後の北風に乗ってみんなで空を飛んでいく場面を動いてみました。凧みたいに、と言ってみたんだけど、なかなか難しいかったかな。

雨がよく降っている。これでしばらく降らなくなってしまう天気予報がちょっと心配。畑でも田んぼでも、やっぱり週に一回ずつぐらい適度に降る、というのがベストなんだけど、なかなかそう上手くはいかないよね。

帰りにすき家に寄ろうとしたら、20時で店内飲食は終了、とのこと。コンビニに寄ったら混んでる。そうかー、ますますコンビニだけが繁盛するのか。

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210416 畑づくり [田畑]

八王子で畑づくり。

今年からトウモロコシと枝豆を育てる畑です。上手く育つといいなあ。草刈りして、肥料撒いて、耕運機かけてきた。


ちょっと寒かったけど、楽しい仕事でした。新しい耕運機のセッティングをしたりとか。オイルがなかったりとか。教訓、新しい機械にはオイルが必要です。


先週から腰を痛めてて、今週知り合いに鍼治療をしてもらってちょっと良くなっている気もするんだけど、運動したり、痛いと思いながら仕事してるので、なかなか。献血に行って心電図を取ったら、精密検査が必要、と言われたり。とりあえず、ラーメンと甘い物が胃腸にはよくなくてそれが腰にも影響していることはわかったので、ちょっと控えようと思ってるんだけど、なかなか。


人と働くというのは、基本的にはおもしろいと思う。自分と同じ人はいないんだな、ということがよくわかる。苦手なこと、得意なこと、やりたいこと、気になること、がそれぞれ違う。ひとりでやる方が楽かな、と思うこともある。でも、誰かと一緒にやった方が、やっぱり仕事は進むし、新しい発見もあるし、新しいアイディアも出るし、刺激もある。去年から、身近で働く人も増えたし、仕事を頼んでくれる人、新しい仕事を教えてくれる人も何人かいてくれて、いろいろとおもしろい。そういえば、学校の講師の仕事は去年で終わったけど、まあそれはそれで、こうなってみると本当に良かった気もする。新しい仕事に出会えて。そうか、仕事は出会いだ。


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森林保全活動に参加した高校生へ [みんなの森]

昨日、僕は84歳のおじいさんと一緒に「山調べ」という仕事をしてきました。「山調べ」というのは、現代的にいうと「境界確認」のことで、山の所有者(山主)さん同士の境を確認して、自分の山の木に印をつけていく仕事です。けんちゃん(おじいさんのことはみんなはこう呼ぶのでこう書きます)は、中学を卒業後15歳からあちこちで仕事をしてきて、現在は僕と同じ林業家さんのところで働いています。竹屋、材木屋、ダンプの運転手、などいろんな商売を経験しているし、猟師として山でイノシシやシカ、熊を撃った経験もある山の大ベテランです。けんちゃんと山を歩くと、山の境を教えてもらうことはもちろんですが、いろんな仕事をした経験や、地域に伝わる昔話、イノシシなどの動物の生態の話、山で出てくる山菜やツルのことなど、いろんなことを聞くことができるのでとても楽しいです。正直、僕はどこも同じに見える山の境を覚えることよりも、けんちゃんのいろんな話を聞くことの方が好きです。
去年高校の森林保全活動に参加したすぐ後に、けんちゃんと日の出町の山に入った時に、「ここの山には怖い話があるんだよ」と言われました。なんのことだろう、と思ったら、「青梅の裏宿七兵衛のことは知ってるだろう。あの七兵衛が、一時期この山の中に潜んでいたことがあるらしい。昔はここから青梅の様子がよく見えたから、ここから見張っていたらしいぞ」と教えてくれました。けんちゃんもこの話は地域のおじいさんから聞いたそうです。ちょうど高校の近くにあった今は公園になっている裏宿七兵衛の屋敷跡を通って七兵衛のことを知ったばかりだったので、思わぬつながりにびっくりしました。
山調べでは、所有者の印をつけるのは、山の境に立っている木にその家の屋号を書くことになっています。スギやヒノキなど、山に植えてある木のデコボコした皮を少し削って、平らにしてそこに墨で漢字やカタカナ1文字ぐらいの屋号を書いていきます。スプレーで印をつけるのが楽ですが、「墨で書けば10年は消えねえよ」と教えてもらいました。「もう10年後は来られないから、林くんが歩けよ」と言われて、考えてみると今41歳の僕でも、仕事ができるのはせいぜい後20年~30年ぐらいのものでしょう。30年後には、次の世代に場所を教えて、その木を守ってもらわなくてはなりません。山の木が売れるのは、現在では最低でも50年ぐらい、長ければ、100年、150年という木もあります。つまり自分が20歳で仕事を始めたとしても、植えた木が売れる頃にはもう70歳、引退どきです。次の世代、その次の世代まで誰かが木を育ててくれることを見越して成り立っている仕事なのです。今「いい木だな」と見ている大きな木は、100年以上前の、けんちゃんよりももっと前の世代の人が植えてくれて、けんちゃんやその次の世代の人が手入れをして育ててきてくれた木です。林業、というのは、過去、現在、未来という時間を通して成り立つ、とてもおもしろい仕事です。

みんなが体験してくれた森林保全活動は、材木として売れる杉やヒノキを育てるための狭い意味での林業とは少し違いますが、山に必要な木を残して、不要な小さな木を伐って片付けて、山を綺麗にしていく、という意味では林業の体験でもあります。山とのかかわり、自然とのかかわりはいろんな形があって、観察したり、山登りをしたり、というかかわり方もあるし、木を伐ったり、草を刈ったり、木の大きさを調べたり、というかかわり方もあります。実際に林業の仕事にかかわる人はそれほど多くはないかもしれませんが、山で仕事ができる、こんな作業があるんだ、というの知っておくのはとてもいいことだと思います。日本では、現在でも多くの人が木造の家に住んでいるし、最近は木をいかした建築や薪ストーブが注目されることもあります。自分たちの家や家具に使われている木材がどういう仕事を経て、どれだけの時間を経てここにあるのか、というのを知ることには意味があると思うからです。それに、何より僕にとってはけんちゃんたち山の大ベテランの話を聞くのがおもしろいし、山の仕事を専門にしてきていない人でも、なんで山に関わるようになったのか、どんな生活をしてきたのか、いろんな話を聞くのが好きなので、山の仕事、山の活動にかかわっています。もっと多くの人が山の活動にかかわるようになるといいな、と思っています。
「林」という字は、「木を生やす=人が木を植えた場所」という意味がある、という説もあるそうです。今回の授業が、身近な木や自然に興味を持つきっかけになるといいな、と思っている林からのメッセージをこれで終わります。

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かしはばやしにおけるお祭りとケンカ

2年前ぐらいに、パーティのWebサイト用のコンテンツとして書いたのですが、いよいよかしはばやしに取り組むことになったので、公開。来年3月無事に発表できるといいのですが。

おすすめ宮沢賢治 かしはばやしの夜

夏のをどりの第三夜、農民清作は背高の画描きに連れられて、かしはばやしでの歌合戦に招かれます。大きな柏の木大王と木を伐ることもある清作は出会ったそばから即ケンカですが、それもまた祭りの盛り上げに一役買っているようにも見えます。後半は、ふくろう達も加わっての大乱舞会になって祭りは最高潮!となったところで突然の雨が落ちてきておひらき、となります。
柏の木たちは、即興的にいろんな題材から歌をつくります。馬とウサギ、くるみの木、山猫と里猫、さるのこしかけ、そして清作までも歌の材料になります。負けずに清作も、大きな声で言葉遊びに参加していきます。特に大王との間で繰り返されるケンカが僕は一番好きです。木を伐る権利があるのか、ないのか、酒を買ってあるのか、これから買うのか、誰のために酒を買うのか、言い争っているうちにグチャグチャになっていきます。

お祭りとは何のためにあるのか、いろんな意味があると思いますが、一つはそのお祭りに参加する人同士の連帯感、一体感の確認の場と言えるでしょう。僕が毎年参加している能登の「あばれ祭り」や地元日の出町の各地区ごとに行われるお神輿の出るお祭りに参加したり、見ているとそのことがよくわかります。普段近くに住んでいてもなかなか一度に集まることのない人同士が年に一回集まること、あるいは、普段は別の地域に住んでいてもお祭りには集まることでコミュニティはまとまることができるし、さらに言うとそこに参加していることは、ある意味でかけがえのない自分に気づくことなのかもしれない、とも思います。このことは僕自身がこの20年ぐらいほぼ毎年お祭りに参加するようになった理由の説明として、もうちょっと考えてみます。自分がもしその場にいないとしても、そのお祭りは成立するでしょう。でも、みんなが参加しなければお祭りは成立しません。自分一人が参加しなくても成立するが、自分と同じ一人ずつの人が誰も参加しなければ、お祭りは成立しない。つまり、自分一人が参加しなければ、自分にとっての祭りは成立しないけれど、参加することで、自分にとっても他の誰かにとっても祭りは成立しています。

清作は、人間同士のつながりは少し薄いような存在なのかもしれません。しかし、少なくともこの日の「かしはばやしの夜」ではかけがえのない存在になっています。清作が必死に怒れば怒るほど、暴れれば暴れるほど、祭りは盛り上がります。清作が元気な『かしはばやしの夜』が見たい。
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200515 草刈りで考えたこと [田畑]

お久しぶりです。

気づいたらso-netブログじゃなくなっていました。まあいいか。
田んぼの草刈りをしながら色々考えました。
しかしもう遅くなってしまったので、続きは明日書くことにしましょう。
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170726ー本人の意思とは。 [study]

私たちの行動や考えは、なにを根拠にしているのか。つまり、自分の意思、というのは何を根拠にして成立しているのか。久しぶりに書いた生命倫理のレポートみたい。ローカルや地域にこだわってきた自分の考えの道が少し見えてきた気がする。

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今日付けの東京新聞で2つの記事が目に止まった。事件から一年経ったやまゆり園の建て替えについてと、イギリスの乳児の尊厳死をめぐる訴訟の記事だ。
やまゆり園跡地にどのような施設を建てるか、利用者本人の意思確認をしていると言う。以前と同じような大規模施設を建てるか、近年の厚労省の方針に従って地域との共存を目指すようなグループホームのような小規模施設を複数建てるのか。実際にグループホームの生活を体験をしてもらった上で、絵や言葉を使って確認するが、判断が日によって変わったりするなど、対象者によっては判断ができるまで数年かかるのではないか、というようなこともあるらしい。
イギリスでは難病の11ヶ月の乳児を尊厳死と判断した病院側に対して、アメリカでなら治療ができるはずとして両親が訴訟を起こした。しかし、アメリカの医師が「手遅れ」と判断したことにより、争いを断念する、という。意思を明確にすることができない乳児の本人の意思を、誰が判断するのか、ローマ法王やトランプ大統領など多くの人も関心を持って関わっていたという。

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本人の意思を確認することが難しい時に、どのようにしてその意思を汲み取るのか、というのがここでの話題であった。しかし、大人やいわゆる健常者であっても、本人の意思というのは、必ずしも一定ではない。昨日考えていたことと、今日考えている事は必ず一緒かというと、そうではないし、そうしなくては、とても不自由になってしまうことだろう。私たちは、常に自分自身の考えを検証したり、変化させたり、発展させて生活している。自分で判断している、と多くの場合考えているが、果たして本当に自分の中だけに根拠があるのか、というと必ずしもそうではなくて、他者や社会からの影響は少なくない。どころか、ほとんどが外部からの影響ではいかと思ってしまうこともありうる。今日着る服や今日食べるもの、今日の仕事の内容、今日の会話の内容、など。
ここで多くの人がするように哲学の教科書を探すとすると、デカルトの項目でも見れば、「汝自身を疑うことができるか」なんてことが書いてあったりする。まあ、それほどでもない(自分自身を疑うことができない)とすれば、確かに自分はここにいるし、さまざまな情報に対して、自分の判断によって行動をすることによって、自分が成り立っている、というぐらいのところで落ち着けるかもしれない。
僕はあんまり落ち着かなくて、スピノザを呼ぶ。あらゆる運命的な決定の末の「あらわれ」として人間自身が成り立つ、というのが彼の考えだ。「あらゆる」という部分は、世界全体であり、「神」であり「自然」である。神が引っかかるときは、自然に支配されてる、ということでいい。

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じゃあ、自然とはなにか。ここも、実は普遍的なものではなくて、個人的な解釈の余地があるのかもしれない。「自然法則」的なものだけではなくて、各自のローカルな自然を根拠にしてみよう。自分が一番生きやすい環境、と言い換えてもいい。つまり、大自然の中での自給自足的な生活が好きな人もいるし、大きなビルやマンションで都会的な生活が好きな人もいるだろう。こういうところで、各自の自由、として放り投げてしまっていいのか、都会暮らしには何か問題があるんじゃないか、と言いたい気もするけど、今は放り投げておくことにする。自分の意思とは、やはり、本人がどこで、誰と、どんな風に生きてきたか、というところからつくられているように思うのだ。

170420- 花盛り [田畑]

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長かった桜もこの数日で一気に散ってしまいました。
畑では、エンドウやソラマメの花が続々と咲いています。
あと一週間もすれば、エンドウの収穫が始まりそうです。
ようやく春の野菜もそろってきます。
今の収穫は、のらぼう、葉玉ねぎ、葉にんにく、イタリアンパセリ、ニラなどです。

170304ー豊かな日常としての『やまなし』 [ものがたり文化]

春のキャンプに向けて、宮沢賢治『やまなし』に取り組んでいる。
みんなと話しながら物語について考えている中で、考えたことをまとめておく。
今日の事前活動はどうなるかなぁ。

ーーー
僕が高校生ぐらいの頃『終わりなき日常を生きろ』という本が流行った。別に流行ってはいないかもしれないけど、インパクトのある言葉だった。
阪神大震災、オウム事件、よくわからないモヤモヤに包まれていた時代、閉塞感と言ってしまえばそれまでだが、日常を受け入れることが難しい時代だった。将来に期待できないから、日常にも期待できない。成熟した社会、というと聞こえはいいが、つまらない社会だった。

さて、カニの世界だ。激しい川の流れ、周りはぼんやりとしか見えていない。いろんな命やいろんな光やいろんな影が周りを包んでいる。彼らの目には「クラムボン」が映っている。クラムボンは、大きいのか、小さいのか、形があるのか、ないのか。魚もクラムボンも、同じ水の中でカニたちの目の前で遊んでいる。しかし、魚はいなくなってしまった。樺の花が流れてくる。クラムボンはどこへ行っただろう。
十一月の川は静かだ。透き通っている。月が水面から、水底まで映る。兄弟は競争をはじめた。体を動かして、夏の間に集めたエネルギーを見せつけようとする。そこにもっと大きな塊が落ちてくる。やまなしだ。大きな木の、葉っぱや根っこから集めたエネルギーの集合がやまなしだ。溢れている香り。
カニの日常は、豊かだ。それはまだ彼らが子供だからかもしれない。しかし、そんな豊かな日常を誰もが経験して成長してきた。成長することは、豊かさを失うことだろうか。可能性を少なくすることだろうか。ある意味ではそうかもしれないけど、ある意味ではそうではなく、また新しい舞台に上るための大切な過程である。カニになって、そんな経験を一緒にしてみよう。

『ちいさなちいさな王様』という物語がある。王様の国では、人は成長するにつれて小さくなり、色々なことを忘れてしまう。その代わり、自由に想像力を働かせたり、遊んだりする。王様はサラリーマンの「僕」の家に遊びにきて、いつも退屈な「僕」の通勤する道に想像の力で竜を出したり、夢と現実は同じじゃないか、というような話をしてくれる。
僕たちは一見退屈な日常を常に生きていかなくてはいけない。大きな夢を見たり、いろんな世界を想像することは、それでもまだ自由なんだろう。そのことを、『やまなし』のカニたちは、子供達にはもちろん、大人になった僕たちにも気づかせてくれている。

追記。「死」について。先日、北海道の義理のおばあさんが亡くなった。お正月に会った時には元気にお話をして、笑ったりしていたのに、それからひと月もしない間に急に。自分の青森のおじいちゃんもそうなんだけど、遠くで、急にいなくなった人のことを実感するのは難しい。

参考文献:
アクセル・ハッケ『ちいさなちいさな王様』1996年、講談社
宮台真司『終わりなき日常を生きろ』1998年、ちくま文庫

161116-いろいろと収穫(少しだけ) [田畑]

11月も半ばを過ぎて、なんとなく今年のリミットが迫ってくるようになる。
これから冬を越すまでにタネを撒いたりしなくてはいけないのは、あとは小麦と玉ねぎの移植ぐらいかな。今年は、山の仕事が少ないので比較的順調に冬支度に迎えているような感じ。明日は、高校生の体験活動のお手伝いですが。
今日は、里芋を掘ったり、落花生を掘って、夕方は軽トラ野菜販売へ。里芋は、ここいらでは「小芋」と呼ぶ通常の里芋と「八つ頭」を作っている。西多摩では、「いも」というと「里芋」のことを指す。僕の実家では、「いも」と言えば「じゃがいも」で、それは母の実家が青森で、じゃがいもの産地だからだろう。北海道の人も「いも」と言えばじゃがいものようだ。九州の人はどうなのかな、さつまいもだろうか。今度聞いてみよう。
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落花生も掘ったけど、うちで食べる分にしかならなかった。草に負けていたから。5月下旬にタネを蒔いた落花生、空芯菜、オクラなどは、発芽直後に虫に食われたのが多くて、今年はあまりよく育たなかった。ある程度育つまで、苗を作って移植した方がいいのかもしれない。
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エゴマも収穫した。なすの株間用に植えたもので、収穫時期はいつだろう、と思っていたらかなりの実が落ちていて、遅かったらしい。とりあえずシートに広げたが、ここから取り出すのはなかなか大変そうだ。

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