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170304ー豊かな日常としての『やまなし』 [ものがたり文化]

春のキャンプに向けて、宮沢賢治『やまなし』に取り組んでいる。
みんなと話しながら物語について考えている中で、考えたことをまとめておく。
今日の事前活動はどうなるかなぁ。

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僕が高校生ぐらいの頃『終わりなき日常を生きろ』という本が流行った。別に流行ってはいないかもしれないけど、インパクトのある言葉だった。
阪神大震災、オウム事件、よくわからないモヤモヤに包まれていた時代、閉塞感と言ってしまえばそれまでだが、日常を受け入れることが難しい時代だった。将来に期待できないから、日常にも期待できない。成熟した社会、というと聞こえはいいが、つまらない社会だった。

さて、カニの世界だ。激しい川の流れ、周りはぼんやりとしか見えていない。いろんな命やいろんな光やいろんな影が周りを包んでいる。彼らの目には「クラムボン」が映っている。クラムボンは、大きいのか、小さいのか、形があるのか、ないのか。魚もクラムボンも、同じ水の中でカニたちの目の前で遊んでいる。しかし、魚はいなくなってしまった。樺の花が流れてくる。クラムボンはどこへ行っただろう。
十一月の川は静かだ。透き通っている。月が水面から、水底まで映る。兄弟は競争をはじめた。体を動かして、夏の間に集めたエネルギーを見せつけようとする。そこにもっと大きな塊が落ちてくる。やまなしだ。大きな木の、葉っぱや根っこから集めたエネルギーの集合がやまなしだ。溢れている香り。
カニの日常は、豊かだ。それはまだ彼らが子供だからかもしれない。しかし、そんな豊かな日常を誰もが経験して成長してきた。成長することは、豊かさを失うことだろうか。可能性を少なくすることだろうか。ある意味ではそうかもしれないけど、ある意味ではそうではなく、また新しい舞台に上るための大切な過程である。カニになって、そんな経験を一緒にしてみよう。

『ちいさなちいさな王様』という物語がある。王様の国では、人は成長するにつれて小さくなり、色々なことを忘れてしまう。その代わり、自由に想像力を働かせたり、遊んだりする。王様はサラリーマンの「僕」の家に遊びにきて、いつも退屈な「僕」の通勤する道に想像の力で竜を出したり、夢と現実は同じじゃないか、というような話をしてくれる。
僕たちは一見退屈な日常を常に生きていかなくてはいけない。大きな夢を見たり、いろんな世界を想像することは、それでもまだ自由なんだろう。そのことを、『やまなし』のカニたちは、子供達にはもちろん、大人になった僕たちにも気づかせてくれている。

追記。「死」について。先日、北海道の義理のおばあさんが亡くなった。お正月に会った時には元気にお話をして、笑ったりしていたのに、それからひと月もしない間に急に。自分の青森のおじいちゃんもそうなんだけど、遠くで、急にいなくなった人のことを実感するのは難しい。

参考文献:
アクセル・ハッケ『ちいさなちいさな王様』1996年、講談社
宮台真司『終わりなき日常を生きろ』1998年、ちくま文庫
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