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170726ー本人の意思とは。 [study]

私たちの行動や考えは、なにを根拠にしているのか。つまり、自分の意思、というのは何を根拠にして成立しているのか。久しぶりに書いた生命倫理のレポートみたい。ローカルや地域にこだわってきた自分の考えの道が少し見えてきた気がする。

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今日付けの東京新聞で2つの記事が目に止まった。事件から一年経ったやまゆり園の建て替えについてと、イギリスの乳児の尊厳死をめぐる訴訟の記事だ。
やまゆり園跡地にどのような施設を建てるか、利用者本人の意思確認をしていると言う。以前と同じような大規模施設を建てるか、近年の厚労省の方針に従って地域との共存を目指すようなグループホームのような小規模施設を複数建てるのか。実際にグループホームの生活を体験をしてもらった上で、絵や言葉を使って確認するが、判断が日によって変わったりするなど、対象者によっては判断ができるまで数年かかるのではないか、というようなこともあるらしい。
イギリスでは難病の11ヶ月の乳児を尊厳死と判断した病院側に対して、アメリカでなら治療ができるはずとして両親が訴訟を起こした。しかし、アメリカの医師が「手遅れ」と判断したことにより、争いを断念する、という。意思を明確にすることができない乳児の本人の意思を、誰が判断するのか、ローマ法王やトランプ大統領など多くの人も関心を持って関わっていたという。

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本人の意思を確認することが難しい時に、どのようにしてその意思を汲み取るのか、というのがここでの話題であった。しかし、大人やいわゆる健常者であっても、本人の意思というのは、必ずしも一定ではない。昨日考えていたことと、今日考えている事は必ず一緒かというと、そうではないし、そうしなくては、とても不自由になってしまうことだろう。私たちは、常に自分自身の考えを検証したり、変化させたり、発展させて生活している。自分で判断している、と多くの場合考えているが、果たして本当に自分の中だけに根拠があるのか、というと必ずしもそうではなくて、他者や社会からの影響は少なくない。どころか、ほとんどが外部からの影響ではいかと思ってしまうこともありうる。今日着る服や今日食べるもの、今日の仕事の内容、今日の会話の内容、など。
ここで多くの人がするように哲学の教科書を探すとすると、デカルトの項目でも見れば、「汝自身を疑うことができるか」なんてことが書いてあったりする。まあ、それほどでもない(自分自身を疑うことができない)とすれば、確かに自分はここにいるし、さまざまな情報に対して、自分の判断によって行動をすることによって、自分が成り立っている、というぐらいのところで落ち着けるかもしれない。
僕はあんまり落ち着かなくて、スピノザを呼ぶ。あらゆる運命的な決定の末の「あらわれ」として人間自身が成り立つ、というのが彼の考えだ。「あらゆる」という部分は、世界全体であり、「神」であり「自然」である。神が引っかかるときは、自然に支配されてる、ということでいい。

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じゃあ、自然とはなにか。ここも、実は普遍的なものではなくて、個人的な解釈の余地があるのかもしれない。「自然法則」的なものだけではなくて、各自のローカルな自然を根拠にしてみよう。自分が一番生きやすい環境、と言い換えてもいい。つまり、大自然の中での自給自足的な生活が好きな人もいるし、大きなビルやマンションで都会的な生活が好きな人もいるだろう。こういうところで、各自の自由、として放り投げてしまっていいのか、都会暮らしには何か問題があるんじゃないか、と言いたい気もするけど、今は放り投げておくことにする。自分の意思とは、やはり、本人がどこで、誰と、どんな風に生きてきたか、というところからつくられているように思うのだ。
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