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かしはばやしにおけるお祭りとケンカ

2年前ぐらいに、パーティのWebサイト用のコンテンツとして書いたのですが、いよいよかしはばやしに取り組むことになったので、公開。来年3月無事に発表できるといいのですが。

おすすめ宮沢賢治 かしはばやしの夜

夏のをどりの第三夜、農民清作は背高の画描きに連れられて、かしはばやしでの歌合戦に招かれます。大きな柏の木大王と木を伐ることもある清作は出会ったそばから即ケンカですが、それもまた祭りの盛り上げに一役買っているようにも見えます。後半は、ふくろう達も加わっての大乱舞会になって祭りは最高潮!となったところで突然の雨が落ちてきておひらき、となります。
柏の木たちは、即興的にいろんな題材から歌をつくります。馬とウサギ、くるみの木、山猫と里猫、さるのこしかけ、そして清作までも歌の材料になります。負けずに清作も、大きな声で言葉遊びに参加していきます。特に大王との間で繰り返されるケンカが僕は一番好きです。木を伐る権利があるのか、ないのか、酒を買ってあるのか、これから買うのか、誰のために酒を買うのか、言い争っているうちにグチャグチャになっていきます。

お祭りとは何のためにあるのか、いろんな意味があると思いますが、一つはそのお祭りに参加する人同士の連帯感、一体感の確認の場と言えるでしょう。僕が毎年参加している能登の「あばれ祭り」や地元日の出町の各地区ごとに行われるお神輿の出るお祭りに参加したり、見ているとそのことがよくわかります。普段近くに住んでいてもなかなか一度に集まることのない人同士が年に一回集まること、あるいは、普段は別の地域に住んでいてもお祭りには集まることでコミュニティはまとまることができるし、さらに言うとそこに参加していることは、ある意味でかけがえのない自分に気づくことなのかもしれない、とも思います。このことは僕自身がこの20年ぐらいほぼ毎年お祭りに参加するようになった理由の説明として、もうちょっと考えてみます。自分がもしその場にいないとしても、そのお祭りは成立するでしょう。でも、みんなが参加しなければお祭りは成立しません。自分一人が参加しなくても成立するが、自分と同じ一人ずつの人が誰も参加しなければ、お祭りは成立しない。つまり、自分一人が参加しなければ、自分にとっての祭りは成立しないけれど、参加することで、自分にとっても他の誰かにとっても祭りは成立しています。

清作は、人間同士のつながりは少し薄いような存在なのかもしれません。しかし、少なくともこの日の「かしはばやしの夜」ではかけがえのない存在になっています。清作が必死に怒れば怒るほど、暴れれば暴れるほど、祭りは盛り上がります。清作が元気な『かしはばやしの夜』が見たい。
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