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210417いてふの実 [ものがたり文化]

今日は小学生5人で活動。
はじめに、イチョウが3億年前から現在まで同じ姿なこと、オスの木とメスの木があること、ラッパ型の葉っぱが出ることがあること、などの話をして、今取り組んでいる『いてふの実』のお話の中でわからない言葉や気になることについて、図書館で本を借りて調べることにしました。
イチョウ、桔梗、烏、鋼、北風について、それぞれ本を借りて来週までに調べてまとめて来てもらうことにしました。
それから、先週公園でみんなで凧揚げをしたことを思い出して、最後の北風に乗ってみんなで空を飛んでいく場面を動いてみました。凧みたいに、と言ってみたんだけど、なかなか難しいかったかな。

雨がよく降っている。これでしばらく降らなくなってしまう天気予報がちょっと心配。畑でも田んぼでも、やっぱり週に一回ずつぐらい適度に降る、というのがベストなんだけど、なかなかそう上手くはいかないよね。

帰りにすき家に寄ろうとしたら、20時で店内飲食は終了、とのこと。コンビニに寄ったら混んでる。そうかー、ますますコンビニだけが繁盛するのか。

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170304ー豊かな日常としての『やまなし』 [ものがたり文化]

春のキャンプに向けて、宮沢賢治『やまなし』に取り組んでいる。
みんなと話しながら物語について考えている中で、考えたことをまとめておく。
今日の事前活動はどうなるかなぁ。

ーーー
僕が高校生ぐらいの頃『終わりなき日常を生きろ』という本が流行った。別に流行ってはいないかもしれないけど、インパクトのある言葉だった。
阪神大震災、オウム事件、よくわからないモヤモヤに包まれていた時代、閉塞感と言ってしまえばそれまでだが、日常を受け入れることが難しい時代だった。将来に期待できないから、日常にも期待できない。成熟した社会、というと聞こえはいいが、つまらない社会だった。

さて、カニの世界だ。激しい川の流れ、周りはぼんやりとしか見えていない。いろんな命やいろんな光やいろんな影が周りを包んでいる。彼らの目には「クラムボン」が映っている。クラムボンは、大きいのか、小さいのか、形があるのか、ないのか。魚もクラムボンも、同じ水の中でカニたちの目の前で遊んでいる。しかし、魚はいなくなってしまった。樺の花が流れてくる。クラムボンはどこへ行っただろう。
十一月の川は静かだ。透き通っている。月が水面から、水底まで映る。兄弟は競争をはじめた。体を動かして、夏の間に集めたエネルギーを見せつけようとする。そこにもっと大きな塊が落ちてくる。やまなしだ。大きな木の、葉っぱや根っこから集めたエネルギーの集合がやまなしだ。溢れている香り。
カニの日常は、豊かだ。それはまだ彼らが子供だからかもしれない。しかし、そんな豊かな日常を誰もが経験して成長してきた。成長することは、豊かさを失うことだろうか。可能性を少なくすることだろうか。ある意味ではそうかもしれないけど、ある意味ではそうではなく、また新しい舞台に上るための大切な過程である。カニになって、そんな経験を一緒にしてみよう。

『ちいさなちいさな王様』という物語がある。王様の国では、人は成長するにつれて小さくなり、色々なことを忘れてしまう。その代わり、自由に想像力を働かせたり、遊んだりする。王様はサラリーマンの「僕」の家に遊びにきて、いつも退屈な「僕」の通勤する道に想像の力で竜を出したり、夢と現実は同じじゃないか、というような話をしてくれる。
僕たちは一見退屈な日常を常に生きていかなくてはいけない。大きな夢を見たり、いろんな世界を想像することは、それでもまだ自由なんだろう。そのことを、『やまなし』のカニたちは、子供達にはもちろん、大人になった僕たちにも気づかせてくれている。

追記。「死」について。先日、北海道の義理のおばあさんが亡くなった。お正月に会った時には元気にお話をして、笑ったりしていたのに、それからひと月もしない間に急に。自分の青森のおじいちゃんもそうなんだけど、遠くで、急にいなくなった人のことを実感するのは難しい。

参考文献:
アクセル・ハッケ『ちいさなちいさな王様』1996年、講談社
宮台真司『終わりなき日常を生きろ』1998年、ちくま文庫

かえるくもみる1 [ものがたり文化]

今年も始まりました。ワークショップ。
今回のものがたりは『蛙のゴム靴』。
3匹の雲見が大好きな無邪気な蛙が、ゴム靴というおしゃれアイテムと出会い、
結婚、嫉妬、意地悪、ドロドロの魔道へと導かれるダークなお話…
すったもんだして、最終的には仲良く働くようになりました。というお話。
魔道って、一発変換されるけど、こんな言葉あるんですね〜
(wikiによると、神道に対する魔道、もしくは魔法の意味でした。ちょっと使い方間違ってるね。)

まあ、もうちょっと良く言えば、
一つ大人になって、そこに衝突みたいのが生まれて、
ぶつかり合いを通して、最終的にはみんな一回り大きくなりました。
という話かな。

いやいやいや、あまり意味はないのかもしれないよ。
「さよならね」って蛙に言わせたいだけかもしれないし、
蛙が野鼠に、野鼠がただの鼠に、鼠が猫に、猫が犬に、犬が馬に、それぞれゴム靴を頼み、馬が人間からゴム靴を手に入れる、っていう場面が描きたかっただけかも。
あるいは萱の刈り跡や麦干しの杭穴が、小さな生き物に対しては恐ろしい存在になっているということか。
結婚の決め手は、案外小さな偶然の出来事です、ということかもしれない。

僕は、楽しい蛙の会話が好きですね。
雲見をしながら、
「どうも実に立派だね。だんだんペネタ型になるね。」
「うん。うすい金色だね。永遠の生命を思わせるね。」
「実に僕たちの理想だね。」
っていう場面が一番好きです。
何が理想か、永遠の生命とはないか、を話し合うのは楽しいかもしれない。

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というわけで、17日の一回目のワークショップの話。
この日のメインは、我が家の近所に住んでいる杉村さんの蛙のお話。

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両生類とはどういう種類か、
蛙には吸盤のある緑色の種類(アマガエルとか)と、
吸盤のない黒や茶色の種類(ヒキガエル、アカガエルとか)がいる、ということなど、
卵やオタマジャクシの写真などを見せながら、楽しくお話してくれました。
特に子供たちが盛り上がったのは、
実物の生きている蛙を触らせてもらった時!
アマガエル、ニホンアカガエル、ツチガエル、モリアオガエルのオタマジャクシを見せてくれました。元気な蛙たちは水槽のふたをあけるとあちこちに飛び回ったりして、一時大騒ぎになりました。

その後は、萱の刈り跡を歩いてゴム靴をボロボロにしてしまう場面の朗読を練習しました。
この日の初参加は5人でしたが、みんな元気に読むことができました。
年長さん二人も元気にお話が読めてよかったですね。

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次回は、ダンサーの先生が来て、蛙の動きを体験するゲームをしてくれます。
お楽しみに!

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松本輝夫『谷川雁 永久工作者の言霊』2014 平凡社新書 [ものがたり文化]

こういうの、ちょっとmixiに書くような内容だけど、せっかくメモに書いたから、全世界に出しちゃう。問題があったらやめよう。

はじめに、第七章、終章、おわりにだけ読んだ。
図書館に返さなくてはいけないので。買うのはちょっと口惜しい、という気分。
僕らの雁さん、を誰か書けばいいんじゃないかな。

山高帽子をかぶって、よくわからない長い話をしていたおじさんだった。発表会では、いろんなことをほめてくれていた。僕にとって一番の印象は、スプリングキャンプの事前活動で『楢ノ木大学士の野宿・野宿第三夜』の言語発表をした時に「良かった」と言ってくれて、ちょっとアドバイスをしてくれた。で、もっと名前をはっきり言えるといい、と言われて名前のやり直しをさせられた。それ以来、できるだけ名前はフルネームではっきり言おう、と心がけているんだ。中2だったかな。他には、特にないなー、学堂にもいなかった。

「人体交響劇」は「重苦しい言葉」かな。それほどでもないよ。人が交響する、ということは、どんな演劇でもダンスのワークショップでも言うと思うよ、「共感」の大事さ。それを「交響」というのはなかなか格好いい。

楢ノ木ベテランたちとテューターベテランたちと西藤さんに話聞けば、ものがたり文化の会での雁さん、は描けるかな。あとは、『十代』を掘って雁さんの言葉を探して、『白いうた青いうた』の大切さは松本さんも認めてるみたいだから、新実さんにも話聞けばいいじゃん。根本順吉さんも定村さんもいなくなってしまったから、案外のんびりしてると話は聞けなくなるかも知れない。谷川章雄さんにも聞けるかも。

雁さん自体もそうだけど、その後のテューターたちや楢ノ木たちが何をやっているか、が大事なのかもしれない。誰か、思想家にならないかな。僕は「実践」の方に行くことにした。演劇は竜くんやこうすけで、音楽は康志くんやあかねちゃん。絵の人もいる。アカデミックなら、長坂くんやら衛くんやら。竜くんは、列島社会が難民の時代になった時に子どもたちが演劇をできることが必要だって言ってて、そこに共感している。

テューターたちは、日々、一人でも多くの子どもたちに宮沢賢治を通じて物語の世界で遊ぶことのおもしろさを伝え続けている。日常の世界にある「現代の寺子屋」であり、さらにはちょっとした「非日常空間」まで用意してくれている。小1の時にはじめて青梅で出会って、英語のぬり絵や言葉遊びから、『そらいろのたね』『はるかぜトプウ』『やまなし』『水仙月の四日』をやらせてくれた中城先生、3年生からは調布で斉藤先生にお世話になった。大人数での活動に戸惑いながら大きなお兄さんにいつも憧れていた。大学で一年間過ごした関西で出会った伊佐くんにテューターは男でもできる、ということを気付かせてもらったことも大きい。真面目に物語を読むことだけがパーティではない、と教えてくれた前田先生、自らダンスの世界に飛び込んで身体表現の可能性を教えてくれた池本先生、とにかくネモパ大好きで活動のテープ起こしをしちゃう根本先生、多くの人との出会いで僕は今では自分のパーティをもって活動を続けている。

1995年に雁さんが亡くなって、ものがたり文化の会はやや縮小傾向にあったけど、行事の参加者数などを見ると、ここに来て持ち直しつつあるのかもしれない。「谷川雁」待望論ももはやかすれた。そんなこと言ってるのは僕だけか。これからも、「小さな活動家」をどんどんと僕らは生み出す。


谷川 雁: 永久工作者の言霊 (平凡社新書)

谷川 雁: 永久工作者の言霊 (平凡社新書)

  • 作者: 松本 輝夫
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2014/05/16
  • メディア: 新書


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『北守将軍と三人兄弟の医者』のお話 [ものがたり文化]

18日の本番に向けて。
小学5年生に向けて書いてみました。

30年て、どう思う?長い?短い?みんなのお母さん、お父さんはいくつ?だいたい35才〜45才ぐらいかな。30年前は5才〜15才だ。今のみんなと同じぐらいかな?
例えば僕は今35才。30年前は5才だ。年中さん。幼稚園に行っていた。あんまり記憶にないけどクリスマスでイエス様の劇とか、やってたような…小学校1年生の時なら少し覚えているよ。入学式でのちのち仲良くなる同じ団地の友だちとけんかをしたんだ。理由は覚えてないけど。まあ、黄色い昔、といっても良いような、ぼんやりとした記憶しか残っていない。やっぱりずいぶん長い時間、と言えるな、今の僕にとっては。
北守将軍ソンバーユーはその30年間、ずーーっと砂漠にいた。北守ということは、北からの敵と戦ったんだね。中国という国は、北に砂漠があって、そこから攻めてくる遊牧民族の人たちと長く戦っていた歴史がある。遊牧民族は馬に乗って攻めて来るから、それを防ぐために「万里の長城」という長い壁をつくっていたんだ。さらに、町の周りにもしっかりとした城壁を何重にもつくっていた。日本のお城とは違って、街全体が大きなお城みたいになっていた。だから、将軍が帰ってきた時に、最初は誰だかわからないから城門を閉じて、ソン将軍だってわかってからは門が開いた。
敵をやっつけて帰ってきた将軍だったけど、見た目はすっかり変わってしまった。みんな「灰色でぼさぼさして、なんだかけむりのやう」だった。しかも、将軍は馬から下りられない。本当に30年間ずーっと馬に乗っていたんだね。さて、病院に行こう。丁度良い病院が町の南の崖の上にあった。リン兄弟の病院だ。まず、リンパー先生は頭の目を直してくれた。リンプー先生は、馬と将軍を離してくれた。リンポー先生は顔や体に生えた草を取ってくれた。ここで将軍は30年ぶりににっこりした。これはうれしいだろうね。30年間砂漠でせおっていた苦労から解放されたわけだから。それから将軍は王様にあいさつに行く。王様は、これからも大将たちの大将になってくれ、というけれど、将軍はていねいにお断りした。そして、ふるさとのス山のふもとに帰っていく。
さて、最後将軍はどうなったのかな。仙人になったのかな?それともリンパー先生が言うように死んでしまったのかな?まわりの人からみれば、30年間も戦ってきた将軍様はすごい人だから、「仙人になった」と思ったのかもしれないね。でも、将軍を治したリンパー先生からみれば、将軍も普通の人と同じだったのに30年間の戦争のために病気になってしまった、と思っているのだろう。どうなったか、ということの答えは、1つしかないと思うかもしれないけれど、実はそうじゃない。
死んじゃった人は、もういない。本当かな。みんなの心のなかには確かにいる、と言えないかな。ちょっと難しいけど、身近な人で考えようか。例えば、僕のおじいちゃんは僕が20才ぐらいの頃に死んでしまった。おじいちゃんは青森にいて、僕がお葬式に行った時には骨になってしまっていて、会うことができなかった。そうするとどうなるかというと、実感がわかない。確かにもういないから会うことや話すことはできないんだけど、でも、またどっかで会えるような気がしちゃう。ひょっこりお庭の木の間から顔を出すんじゃないかな、とか。金魚にえさをあげてるんじゃないかな、とか。それは、本物のおじいちゃんじゃなくて、おじいちゃんの記憶だ、って言われるかもしれない。でも、東京に帰ってきて青森のおじいちゃんを想像することと、記憶のなかのおじいちゃんは違うのだろうか。おじいちゃんがその場にいない状態で僕が感じているおじいちゃんは生きていてもいなくても同じなのではないだろうか。おじいちゃんは心のなかでは昔も今も僕のなかにいるのだ。
つまり、ソン将軍は仙人になったのかもしれないし、死んだのかもしれない。それは、ソン将軍のことを思っている人がどう考えるのが落ち着くか、というだけのことなのじゃないかな。いまの常識として考えれば、仙人なんていない、と思うかもしれない。でも、将軍は仙人になったと思った方が落ち着く、という人もいる。お話としては、それぞれで落ち着く方を選べば良い。ただ、僕らはそれを人体交響劇で発表する。さあどうしようか。一応僕の考えを書こう。それぞれの人がもっている北守将軍ソンバーユー、というのはどうかな。あんまりおもしろくなさそうな気もするけど、今はこんなところかな。

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かたつむり楽団1周年発表会 [ものがたり文化]

ものがたり文化の会の合唱団、かたつむり楽団の1周年祭がありました。
いろいろと重なるので大体2回に1回ぐらいの参加なのですが、
紫竹あかねちゃんの指導のもと、楽しく歌わせてもらっています。
今日は一周年記念のお祭りということで、
一人ずつ好きな曲を好きな人を歌う、という企画でした。
『なぎさ道』という元気な曲を選びました。
子どもから大人まで、みんなのお気に入りがわかって素敵な時間でした。

今日は、朝から30分走って、歌もうたって、なかなか健康的。
今週も元気に過ごせそう。
インフルエンザは、お隣の家まで迫っているみたいですが…気をつけましょう。
今のところ、花粉の方がすでに夜になると目がショボショボするので厄介。

夜はミネストローネを作って、
本に「最後にパスタを折って入れる」と書いてあったのでその通りにしたらなかなか好評でした。
あとは、いつも週末に近所のスーパーにやってくる焼鳥。これがなかなかおいしいのです。
変な取り合わせかもしれないけど、まあ美味しいからいいということで。

・今日のお買い物
「計るだけダイエット」のための50g単位の体重計。DRETECのプティ。
家族に「お金の使い方の基準がわからない」と言われました。
電気代はやたら気にするのに、買い物ばっかりしているように見える、と。
無駄遣いに気をつけます。

2012 土神と狐 [ものがたり文化]

とりあえず、ここにも載せておきます。
パーティの人たちに見てもらえるように。
3月11日発表会をします。来てね。

設計思想
樺の木:動き回る 軽やか 芯の強さ
土神:ヒステリック 素直 不器用さ
狐:格好付け 臆病 勉強家
神になりきれない土神と、紳士になりきれない狐。少女のままでいられない樺の木。不完全な三人による悲しいお芝居。
狐にとっても土神にとっても、樺の木は唯一無二の友達である。狐は、広い野原でたまたまであった樺の木を見初め、精一杯自分を良く見せたくておしゃれをし、本を用意し、星のことや美学のことを調べて、樺の木にお話をしにいく。自分が用意してきたことを思う存分話し、気持ちよくなってきて、うっかりと用意していなかった「望遠鏡」の話をしてしまった。一度ついた嘘を直すことができないのは、相手を傷つけたくない、という自分への言い訳か。人への嘘は自分への嘘でもある。
土神は、人間との関係に寂しさを覚え、野原に現れた樺の木に親しみを感じた。特に自分を飾るということをせず、自分の感じたことを知ってもらうために樺の木に話をしにいく。蓄積した怒りがわずかなことで表面に出てしまう性格。本来は飾り付けられていたものが飾りを失い、自らの姿を見失いかけてしまっているような。
樺の木にとって、狐や土神は必要なのだろうか。カッコウやモズや鳥たちが集まれば寂しくないのか。根を持つものとして、訪ねてもらうことはできるが、訪ねることはできない。尋ねることはできる。樺の木が本当に知りたかったのは、自らが立つ土地のことだろうか。それとも世界の美しさや宇宙のことだったのだろうか。

ローカルからグローバルへという時代が落ち着くと、次の時代に求められるのは何だろう。グローカル?いやいや、なんだそれ。やっぱりむらは作るものではないし、人の集まるところ、生きているところにあるもので。人それぞれの宇宙を追求していく方がおもしろいんじゃないだろうか。
「今できることをしよう。」まずは、自分のことを見ることか、相手に映る自分を見ることか。世界には、相手と自分しかいないのだから。「地面が震えて砕けた」としても。

聴覚
「虹いろアメンボ」
芸術、美しいものを探している。色にひかれて、ものがたりに登場する色を集めて身を飾っている。特に赤が好き。
赤革の靴、火(くわ)、朝日、赤い鉄の渋、「(天道は)春は赤く」、赤い焔、赤剝げの丘
赤は、お日さまの赤であり、鉄を生む火や鉄自体の赤であり、星の赤であり…このものがたりのはじまりから終わりまで心棒のように通っているもの。そのエネルギーを常に感じながら、聴覚としての美しさ=ものがたりの美しさを追求していくのが虹いろアメンボの役割。あんまり役割、とか言わなくてもいいか。

発表会終えての今年の目標 [ものがたり文化]

1月16日の発表、無事に終わりました。
いつもながらかなりの緊張感のなか、多くの仲間に支えられて、良い発表になったと思います。
出てくれた仲間、見てくれた仲間、みんなに感謝です。
今回は、ベースとなる出演者が僕を入れても5人ぐらいしかいなくて、
急きょしばらく休んでいた仲間や近くに住む他のパーティの人の応援などによって、
何とかかたちにすることができました。

今までみんなで活動してきたことの一つの成果として、良いものができたと思います。
『狼森と笊森、盗森』という物語に今取り組んだ、ということでも良かった。
去年は、みんなの森の設立、冒険の森での夏キャンプ、そして狼森というかたちで、
森とのかかわりが深まる年でした。

というわけで、今年の第一の目標を達したので、次の目標を考えます。
・「芸術祭」出展。自分たちで賢治作品の中から好きなものを選んで、朗読をして、絵本を作る、という内容です。
・6、7月にワークショップ。人を募集。
・今年中に、日の出でパーティができる準備を進める。
これが、ものがたり文化の会30周年の年の計画です。

第31回賢治童話人体交響劇発表会 [ものがたり文化]

あります。
16日です。今週末。
出演します。
『狼森と笊森、盗森』(おいのもりとざるもり、ぬすともり)
『烏の北斗七星』(からすのほくとしちせい)

■1月16日(日) 第31回賢治童話人体交響劇発表会 
時間:開場12:30 開演13:00
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター カルチャー棟・小ホール

プログラム
1.『北守将軍と三人兄弟の医者 葛飾ものがたり文化の会
2.『水仙月の四日』 小泉パーティ(多摩市)
3.『鹿踊りのはじまり』 久保寺パーティ(横須賀市/横浜市)
4.『山男の四月』 根本パーティ(我孫子市)
5.新年俳句会 抄句・川田由美子氏(俳句十代主宰)
6.『楢ノ木大学士の野宿 野宿第三夜 前田パーティ(足利市)
7.『狼森と笊森、盗森』 林パーティ(調布市)
8.『烏の北斗七星』 関東楢ノ木会
9.合唱「白いうた青いうた」より
新年俳句会はどなたでも参加できます。当日会場に投句用紙を用意しますので、ふるってご参加ください。

烏は、昨日出ることが決まりました。
いつもこのパターンだから、嫌いなんだこの話。(←自分が悪いのに)
でも、「わたくしはわたくしにきまつたやうに力いつぱいたたかひます」
というセリフが前回やった時からなんとも気になっちゃって。
あと、自分がもらったセリフは一箇所しかないんだけど、
まーかなり本気ですよ。今回は。感情移入度としては。

オイノ森は、去年の秋からずーっと練習して来てたんだけど、
なかなか。
注目は初舞台の小一男子演じる山男。やっぱり役者の血というのがあるのかも。
しかし、そこに頼ってはいけないんだけれども。
あとはベテランだからね。
ある意味で限界芸術でしょう。体力的に。使い方間違ってるけど。
演劇をやってるつもりがなくても、小学生低学年から、
5年、10年、15年、20年、30年やるとこんな風になりますよ、ということ。

これはやっぱり、「賢治童話」「人体交響劇」だからできることなのか。
そういう一つの方法なんでしょうけど。
プロによる純粋芸術ではないし、一般向けの大衆芸術でもない。
普通の人がやってるという意味では限界芸術なんだけど、
それがそんなに端っこではないし、おもしろいんだな。
いつもたどり着いてない感じ、というのが結構大事で、
だからみんなやめられないんじゃないかと思う。

未完成の魅力。ぜひ観にきてください。

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人と生きる、森と生きるー『狼森と笊森、盗森』についてー [ものがたり文化]

来年1月16日の発表会で、『狼森と笊森、盗森』をやります。
その入り口で考えたこと。明日のパーティで話し合って、もう少し良くなりたいなぁ。

 自然の恐怖、自然の安らぎ、自然のおもしろさをどのようなときに感じますか。それは、例えば山に登っていて、下山が遅くなり日没をむかえそうになったときの何も見えない暗闇の恐怖や心細さ。海を見ている時のどこまでも続く青さや深さを想像して気の遠くなるような感じ。思いがけないような紅葉の美しさに出会って、しばらく足を止めて動けなくなるようなこと。さまざまな体験があると思います。そうした体験を思い出して、『狼森』の物語で何もない野原に立ち、家を建て、畑を起こし、火を焚いて生活をする、という人たちの暮らしを想像してみましょう。

 その時代だから、ではなくて、自分自身がそういう環境の中でどのように生活しているかを想像してみる。何もないところだからそこで暮らすのは当たり前、ということで想像力を止めないでもう少し考えてみよう。一人ではなくて家族、村で生活する、ということはとても幸せなことでしょう。なぜならいろいろな会話や行動を通じてコミュニケーションをとり、お互いに暮らしが良くなるように協力していくことができるから。おいしいものが食べられるように、安全で暮らしやすい家ができるように、暖かい服が着られるように。
 一方で、自然との関係はどうなるでしょう。言葉を交わすことができない、顔を見ることのできない自然。でも、常に隣にいるのでどうにかして付き合っていくしかない。できれば、できるだけ良い関係、安心して暮らせるような関係をつくりたい、と考えるのが当たり前なことではないでしょうか。木を見て、森を見て、どのような雰囲気か、何か人間の知っているものがないか、またはそれに近いものはないか。そして、森の方でもきっとそう思っているんじゃないだろうか。そう考えて、森に名前を付けて、森のなかに入り、自分たちが持っているものを見せ自分たちの生活を伝えることで、森の生活も知る。「知らない」という恐怖から、「知っている」という安心に向かう。そして最後には「それから森もすっかりみんなの友だち」になる。僕は小学校の入学式の日にケンカをして、それ以来その子と一番の親友になったという経験があるけど、「友だち」というのはそういう衝突があることでより関係が深くなるということがある。『狼森』の物語は、子ども、農具、粟という村でとても大切なものが森に隠されるという事件があり、再び村に戻ってくる。そして、村からは粟餅を森に送り、それが毎年の習慣になった。友だちになるということ、お互いが協力し合える関係ができるまでのお祭りというか、儀式というか、「習慣の成り立ち」みたいな、そういうものとしてこの物語を感じてもらいたいと思います。
お祭りには繰り返しがあります。五日市でやっている秋のお祭りで、御神輿がなかなか交差点を通過しない、という場面がある。毎年。わざと戻したりするわけ。それはわざと、にも見えるんだけど、そうでないのかもしれない。お祭りは繰り返すこと、毎年やることによって、その時その場所にしかない大きなエネルギーが集まることがある。同じことを同じ人で繰り返すことというのも大切なこと。

聴覚 空飛ぶタネ
山を越え大地を踏みしめる人びと、大地に根ざした木、土地の象徴としての岩手山。この物語は、こうした大地のエネルギーの混じり合うところに成り立っている。それぞれの動き、振動、響きをどのように感じるか。それを、いのちのはじまりであるタネとして表現してみたい。
タネは空を飛んで新しい生活を求める。双葉が出たり、また戻ったり、根が出たり、形が変わったり。まだまだ木にはならないけれど、いのちのエネルギーが満ちている。
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